倫理、価値観の強制か

  私がTwitterで結婚や愛の思想や倫理を説くと、価値観の押し付けだという反発が来ます。もちろん、価値観に賛同しようが、反対しようが、自由なので、押し付けではありません。個人の意見です。

  ただ、強制ではないですが、結婚制度は国家が特定の価値観を推奨する制度であるのは確かです。そうでなければ、一夫多妻や多人数結婚などが認められないことの筋が通りません。一夫多妻は倫理的でないという価値観を選んでいるわけです。選択的夫婦別姓推進派も自由といいながら、別姓とギリギリ同性結婚ぐらいを認めるだけです。つまり、選択的夫婦別姓推進派はその理由が多様性や自由だけなのであれば、

①そもそも、結婚制度反対でないと、筋が通りません。法律婚を廃止して、国家は家族形態に口をつぐむべきとなります。別姓派の田島陽子教授は現に結婚制度反対です。

②また、選択的夫婦別姓もおかしく、完全自由制でないと筋が通りません。個人の自由ならば、なぜ、夫婦どちらかの実家の姓でなければならないのでしょう。

改姓の不便の問題

  選択的夫婦別姓推進派の議論の進め方で大いに問題なのは、プラグマティズムとフェミ二ズムの使い分けです。国民の理解を得ようとする時は、現に困っている人の手続き的な話を前面に出して、「それは助けてあげなければ」と丸めこもうとします。しかし、職場の旧姓使用承認など、現実的に問題が解消され、選択的夫婦別姓制度が必要ないと結論づけられそうになると、急に「それでは足りない。女性の人権問題なのだ」と思想の面を表に出して抵抗するのです。

  選択的夫婦別姓推進派の中にはゴリゴリの左翼からリバタリアン発想で別姓にシンパシーを抱く人までいるのは確かでしょうが、その根本としてはマルキシズムに源流のあるジェンダーフリー思想があります。表面的には自由を掲げていても、根っこは恐ろしい思想だということは心に止めておく必要があるでしょう。

個人の自由という論拠

  選択的夫婦別姓推進派の最大の論拠は、他人が夫婦別姓を選択したからと言って、何の迷惑があるんだ、単なるイジワルだろうというものです。

  当たり前のことですが、結婚制度は私的なものではなく、家族のあり方という国の根幹に関わる公的な制度です。そして、結婚や離婚の要件が法定されているように、国民主権国家においては国民各層が自由に議論に参加し、国会で討議の結果、定めるのです。

   結婚当事者以外は結婚制度のあり方について、口を出せないんだ、個人は他人に迷惑(この定義によりますが)をかけない限り自由なんだというリバタリアン発想は完全なる誤りなのです。

女性差別という批判

 

  選択的夫婦別姓反対派は女性差別主義者だという批判があります。大前提からスタートすると、同姓は男女対称な制度であって、制度的に男女差別はありません。次に慣習的に女性が改姓することが多いとしても、法律上許された自由を行使した結果について、気に食わないから、制度を批判するのは筋違いです。

  しかし、問題はそういう形式論よりは、現に女性が改姓を求められる不平等があるとしても、何で男女平等な結果にならないといけないのかということです。ジェンダーフリーフェミニストの考えは、女性は全て家庭の束縛から解放され、個人として自立すべきだということです。そういう極端な考え方が果たして国民の感覚に合うでしょうか。

リンク先の別姓制討論番組でも、別姓派の田島陽子教授は明確に結婚制度否定を打ち出し、選択的夫婦別姓は現時点で国民に受け入れられるための妥協に過ぎないことを明らかにしております。また、選択的夫婦別姓の思想の根っこは本来、本人による氏名の自由選択なのだが、国民との妥協として選択的夫婦別姓を提案しているに過ぎないと言っています。

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 青野氏初め、選択的夫婦別姓推進派はプラクティカルな不便を解消するとごまかしていますが、本当はジェンダーフリーの実現が目的で選択的夫婦別姓は橋頭堡に過ぎないんだと、時折、衣の下の鎧を見せ、極めて危険な運動ということが分かります。ジェンダーフリー時代の結婚については(いかに危ないか)また考えてみましょう。

多様性無視という藁人形攻撃

  まず、選択的夫婦別姓反対派は現時点で反対というだけで、議論すればいいと考えていますし、アタマから反対なわけでもありません。もっとしっかりと、現代における家族のあり方、性倫理、親や社会の育児への関わりなどを検討した上でないと、単なる放逸、退廃になるんじゃないですか、と言っているだけです。

   しかも、後述しますが、慎重派は進歩主義を取らないので、社会は必要に応じ、必要な慣習を形成し、収斂していくと考えています。つまり、自然で、自由なわけです。「存在するものは合理的である」ヘーゲルの言葉です。

  他方、また独立の項で詳しく述べますが、選択的夫婦別姓推進派の主力であるジェンダーフリー運動の方々は進歩主義で、理想社会の建設に燃えておられます。女性が自立した理想社会というものが確固としてあるので、民間の風習は、古臭い非論理的なものとして存在が認められません。彼らが主流になれば、彼らの理想に反するもの、例えば、ひな祭りを祝う自由もなくなることでしょう。選択的夫婦別姓推進派は選択的といいながら、自由を認めない純化思想に繋がるリスクを秘めています。

  彼らの手法も、これだけ多数の国民が反対している制度を民主的コンセンサスもなしに訴訟で変えようとしたり、いきなり法案の議決を迫ったり、極めて非民主的です。とても穏やかに話し合おうという態度ではありません。

  

伝統、復古主義という藁人形攻撃

  サイボウズ青野氏が、藁人形の選択的夫婦別姓反対派を創作して、漫画的に愚かな反対論を主張させ、叩いて、悦に入ってます。選択的夫婦別姓制度には日本国民の30%以上が反対と言われていますが、彼の言うような愚かな理由で反対するわけがありません。彼は自分がよほど賢いと思い、日本国民を舐めているのでしょうが、国民は遥かに賢明な判断をしているのです。

少しづつ、各論をアップしていきましょう。

 

1.創作的反対論その1 古来からの伝統

  選択的夫婦別姓反対派はアナクロ人間と揶揄して悦に入ろうと言う試みです。しかし、賢明な日本国民は、夫婦同姓が明治維新後、欧米の慣習を持ち込まれたものであることなど、先刻承知してます。

  というか、平成日本人の大半が戦前のことなど知るべくもないので、戦前の文化を守ろうとするわけなどないではないですか。実にバカバカしい創作。藁人形を叩いて悦に入ろうと言うだけのマスターベーションです。

  選択的夫婦別姓に慎重な我々が守りたいのは、戦後民主主義。戦前や中国のような大家族ではなく、平成昭和の平凡な家族です。父と母と子供がいる普通の核家族。片親、あるいは、父親が違うような複雑な家族が増えて欲しくないということはあります。(非典型家族の差別問題は別問題です。)

  江戸時代だの、ちょんまげだの、まともな社会人の発言なのでしょうか?