進歩主義はなぜいけないか?(3)

  ジェンダーフリー進歩主義の方々にせよ、我々にせよ、自由、民主主義、多様性などが善だと信じている理由は、結局、それらが歴史の中で淘汰され、生き残った原理だからだということを考察してきました。これは、ダーウィンの進化論の転用です。ヘーゲルの「存在するものは合理的である」という考え方です。

   ここで話が終わるのならばいいのですが、ジェンダーフリーの方々、進歩主義の方々はこの話をさらに進めます。「人類の歴史は自由、平等、多様性の拡大だ。だから、さらに自由、平等、多様化の徹底を図るべきだ」と。淘汰の結果としての現状を分析することを越え、進化論を将来進化すべき方向性を規定する理論として活用します。

  「キリンの首が長いのは、適者生存、自然淘汰の結果である」という理論から、さらに踏み出して、「キリンの首は進化により伸びて来た。だから、キリンの首をさらに長く伸ばすべきである」としているのです。

  この種のソーシャル・ダーウィ二ズムは「純粋な」理想主義者には、とても魅力的な考えらしく、何度も社会実験されてきています。典型的には人類進化を進めようとした優性政策。「T4作戦」という作戦の遂行で、「劣悪遺伝子」を有する障害者の抹殺を図り、純粋なるアーリア人を生産する「レーベンスボルン(生命の泉)」では、SS隊員と純粋なゲルマン人女性の交配によるアーリア人の大量生産を行いました。ここで生まれた子供たちや占領地域で金髪碧眼の子供をさらって選別された子は親から引き離され、「国民学校」でエリート教育を受けますが、ナチスの政策終了により大量の孤児となります。

 このように、ナチスは政策により生物学的な進化を進めようとしました。ジェンダーフリーの人達は「多様性を広めようというジェンダーフリーは真逆だ!」と怒るでしょうから、よりジェンダーフリーに近いところで、共産主義国家で政策による文化的な進化が試みられたことを見ていく必要があるようです。ナチス共産主義国家も、国家社会主義か世界社会主義かの違いはあれ、社会主義であることから生まれ持った進歩主義傾向は共通しているのです。共産主義ジェンダーフリーについては引き続き考えていきたいと思います。

進歩主義はなぜいけないか?(2)

  ここで、ジェンダーフリーの方々、進歩主義の方々が、なぜ今の思想にたどり着いたか、考えてみましょう。ジェンダーフリーの方々は、いや公平に、ジェンダーフリーの方々だけでなく、我々はすべからく生まれながらに思想や価値観を持っている訳ではありません。子供の時からの教育、環境の中で何らかの思想価値観を持つようになるのです。「いや思想を押し付けられたのではない。自分の頭で考えた」と主張する人は多いでしょう。しかし、北朝鮮に生まれるのと、日本に生まれるのでは、自ずと物の考え方は違ってきます。

  もちろん、言論統制された北朝鮮の教育は洗脳だが、日本では報道の自由もあるので、洗脳ではない、我々の思想価値観は我々が知った事実の中から我々が選びとったとも言えます。それでもなお、我々が受ける教育、報道は現代日本の価値観の枠内のものであることは否定できません。我々は自由、平等、民主主義、多様性、そう言ったものが正しいと教えられてきました。そして、それは何故かと言うと、ポツダム宣言受諾により、GHQが我々にそれらの思想を押し付ける権力を得たからに他なりません。戦争に勝ったアメリカの価値観を受け入れた。

  私はそのこと自体に文句を言うつもりはありません。ただ、「勝てば官軍」なのか「正義は勝つ」なのかと言えば、最初に申し上げた通り、(勝ち負けを抜きに考えて)何が正しい社会か、などと言う問いに答えがない以上、「同じことだ」と言う他ない。勝ち残る思想を正しい思想とするしかなく、「正義は勝つ」という命題は定義上、常に成立するのです。

  ジェンダーフリー進歩主義の方々は「じゃあ、お前は自由や平等や民主主義の方がいいと思わないのか?単に権力で抑えつけられて従っているだけか?」と問うでしょう。それは、もちろん、科学技術、経済、軍事力、衛生、医療、長寿にも繋がり、有利な体制ですし、反逆する理由はありません。しかし、自由がいい、平等がいい、という命題の根拠を問われた場合、突き詰めれば、トートロジーに陥り、「命題自身には根拠はない。ただ、そう信じているだけ」と答えるしかありません。

  ジェンダーフリー進歩主義の方は「そうだとしても、生存競争を勝ち抜いた自由、平等、多様性を善として、目標にするのが何がいけないんだ?」というでしょう。

   しかし、ジェンダーフリー進歩主義の方が適者生存を根拠にするのは、矛盾してないですか?

  

 

閑話休題:青野氏の疑問に答える

  青野氏も少しは反省したようでRTでこの問題を感覚が合う、合わないの問題であるという理解に転換してきたように見えます。そうですね、規範的な問題の正しい誤っているには、基準がないので、好きor嫌い、合うor合わない、の方が誤解がなく、いいと思います。

  さて、青野氏が感覚が合わないとされているのは、「具体的に改姓手続きで困る現実的被害」と「あるかどうかも定かでない家族制度への影響」を天秤にかけて、現実の被害より抽象的な利益を重んじる我々のことです。

  さて、具体的現実的利益は抽象的観念的利益を上回る、という議論は適切でしょうか?

  例えば、空腹で困っているホームレスがいたら、行政が食事を提供すべきか?

  確かに具体的現実的利益からは食事を与えるべきとも言えます。しかし、空腹な人は行政に頼れば、食事を提供してもらえる社会になると、何が起きるでしょう?働かなくても、困ったら助けてもらえる。

  制度はインセンティブ設計であり、人はインセンティブに反応する。働いても働かなくても同じになれば、誰も辛い仕事はやらなくなります。具体的現実的利益を優先することで、「自己責任」という原則の抽象的観念的利益が破壊されるのです。

  このように、改姓手続きで困る人の利益が具体的現実的だからと言って、氏名、家族、結婚制度によって守られている利益に優越するという理由には全くならないのです。

 

※ここでは生活保護生存権は議論範疇外です。

進歩主義はなぜいけないか?(1)

  さて、ジェンダーフリー社会を目指す方、その他、改革を目指す方は、私が進歩主義はいけないと言っていることにピンと来ていないと思います。「性差に関わらず、自由に平等に生きられるのがいいに決まってる!」「LGBTの権利について、日本は遅れている!」とお怒りのようです。

  そう。ジェンダーフリーの方々は暗黙のうちに、できるだけ自由で、平等なのが、「より進んでいる」「よい社会なのだ」という前提を置かれています。

 しかし、そもそも「よい社会」「進んだ社会」とは何でしょう?これが「社会」や「人間」を評価するのではなく、「物」を評価するのであれば、定義は比較的簡単です。物のよい悪いは、その物の用途によって決まってきます。「よいハサミ」とは「よく切れるハサミ」のこと、「よい家」とは「広くて快適な作りの家」のことでしょう。

   しかし、こと「社会 」や「人間」については、用途が決まってないので、何を以て善し悪しとし、何を進歩と呼ぶか、一義的には決まってきません。

  ここで、進歩主義者の誤解の元となる自然科学の有名な理論が出てきます。ダーウィンの進化論です。適者生存の原理である進化論では、生物がより進んだ形態に進化していくとなっているので、これを社会に当てはめた進歩主義者は社会も新しい形態に変わっていくのは進化と考えたわけです。

姓の定義について

  これも、選択的夫婦別姓推進派がずっと答えない論点です。というか、「選択的夫婦別姓」制度を提唱する以上は、自分たちの提案する「姓」とは何なのかを明確にするのは、検討の入口です。それがなければ、何を検討するのか分かりませんから。

  同姓であろうが、別姓であろうが、その他の様々な命名方式だろうが、名が複数のパーツで構成されるなら、そのパーツの位置づけ・定義が必要です。戦後の同姓は70年間一貫して、姓は家族の名前、名は個人の名前、でやってきています。また、中国など別姓の国は同じ血統の一族の名が姓です。

  すると、別姓が選択できるようになった後の姓とは何なんですか?となります。同姓でないから、家族の名ではなくなる。個人の名の一部のようですが、そうなると、ファーストネームとダブルので、そもそもいらない上に、家族の名と併存するのもおかしな話です。しかも、個人の選択といいながら、夫の姓と旧姓の二者択一を強制(別姓派のタームではですが)するという。そこは実家からは独立しないのか、よく分かりません。

  先のテレビでも長谷川三千子氏が質問したのに、ジェンダーフリーの人達は質問の意味も分からなかったようです。

田島陽子教授について

  選択的夫婦別姓推進派には論理のすり替え、飛躍を多用される方々が多い中で、最も論理趣旨一貫しており、対話が成立するのが田島陽子教授です。教授はきちんと選択的夫婦別姓の目指すジェンダーフリー社会を明確にし、選択的夫婦別姓制度が目標に対して手段合理的であることを示してくれます。(ジェンダーフリー社会の実現という目標が合理的かは別)

  田島先生は先のNHK番組でも、女性抑圧の手段である結婚制度反対を鮮明にしています。それに対して会場の一般参加者から、皆が先生のように、独身主義で出産しなければ世代の再生産が行われないではないかという指摘がありました。田島先生は「そんなことはない。いくらでも産む人はいる」というイマイチ釈然としない回答でした。

 結婚制度否定論者の出産育児に対する立場を論理的に解釈すると、三通り有り得るはずです。

1 女性が結婚出産育児のプレッシャーを受けるぐらいなら、少子化で日本が終わっても構わない。(恐らく本音?)

2 自分は結婚出産育児の負担を負いたくないので、他の人の子供にタダ乗りする。

3 女性の結婚出産育児の負担を全部社会で肩代わりし、女性が完全に自立できる状態にすれば、世代の再生産は可能である。

 

流石に1,2は有り得ないので、ジェンダーフリー社会提唱者の理想は3です。ゼロ歳児から保育園が育児し、子育ての労力費用は全て税金で賄う。このジェンダーフリー社会の理想については、引き続き論じていきたいと思います。

ジェンダーフリー社会について

   もう選択的夫婦別姓推進派の本丸はジェンダーフリー社会の実現なのだということをはっきりさせて欲しいのです。ジェンダーフリー社会の橋頭堡だから、選択的夫婦別姓の砦を落とすことに執着するわけですし、反対派は守る必要を感じるわけです。それがなければ、反対派というか慎重派は同姓に特に興味がありません。姓の子供への影響とか、問題になりません。

   しかし、ジェンダーフリー社会を目指すという目論見を持った運動である以上、見過ごすわけには行きません。

  まず、離婚の問題です。確かに、子供が非嫡出子や複雑な家庭の生まれだから差別を受ける、これは問題です。非嫡出子の相続の判決はやむを得ないでしょう。子供はどんな親から生まれるか選べず、責任はないからです。

  他方で親が結婚の失敗を全く気にする必要がないか、というと別問題です。本来、婚姻の継続は努力を要するものであり、努力の必要ないんだ、結婚しようが、離婚しようが、自由なんだというジェンダーフリー思想に同意するわけにはいきません。離婚の負の側面を本人たちが一切負わず、社会に転嫁するようなことは許されません。

   次に育児の問題です。私も仕事において、女性が男性に劣らぬ能力を有し、それを発揮すべきだという点は同意できます。しかし、出産に続く育児において、育児を最優先することを求められた場合、夫婦のどちらかが、育児を仕事に優先させるしかないと考えます。その際に、夫婦の話し合いで妻が育児を優先させ、夫が仕事を優先させることは多いにありうる選択肢です。夫婦両方が仕事を優先して、片手間で育児できるというのは幻想です。他方で夫婦両方が育児優先で行くことが仕事的に可能とは限りませんし、全ての職場に男性の育児優先を強制することが可能とも思えません。少なくとも、夫婦の選択の自由の領域ではないでしょうか。