同姓はキリスト教の伝統

  別姓派が悦に入る理論に「夫婦同姓は日本の伝統ではない」「伝統は変化するもの」などがあります。いずれもその通りなのですが、全く「選択的夫婦別姓制度にすべき」理由になりません。

  言うまでもないですが、夫婦同姓は明治維新後、西欧化という近代化の過程で導入されたものであり、西欧の制度は「夫婦は身も心も一体である」というキリスト教の精神に基づきます。江戸以前の一夫多妻制を廃止し、一夫一婦制が導入されたのもキリスト教の精神に基づく近代化です。

  それでは、「その西欧、例えば、フランスなどでは事実婚やpacsが増加し、同姓が廃れてきているし、少なくとも戸籍制度で同姓を法的に強制している例はないのだから、日本でも法的強制をやめるべきだ」という議論はどうでしょうか。

  まず、日本と欧米先進国の近代化の歴史の差として、欧米先進国は思想が先にあって、市民革命による近代化が行われたのに対し、日本では明治政府あるいはGHQによる上からの近代化が進められたという事実があります。つまり、欧米では政府が右向けと言ったから右とはならないのに対し、日本では政府が決めた方針がそのまま無批判に国民の方針になる。

  選択的夫婦別姓という話について言えば、欧米では元々、同姓という規律は政府が決めたものではなく、キリスト教の規律です。選択的夫婦別姓というのは単に信教の自由を具体化したに過ぎず、キリスト教の規律としての同姓は依然として大半の国民の規律でありうるわけです。(ここは国民の信仰レベルの篤いアメリカと、薄いフランスなどとの差はありますが、これについても詳しく論じたいと思います。)

  つまり、キリスト教世界では国家の規律や統制がなくとも、キリスト教が規律として働くのに対し、日本では国や法律で倫理が保たれていたものも、自由にすると完全なる放逸・野生に走る危険性があります。すなわち、そもそも結婚とは、愛とは、という哲学的宗教的問を建てたこともなければ、深く考えたこともない日本人は法律のタガが外れるとたちまちウィルスに汚染され、退廃してしまうリスクを持っているのです。