青野氏らの軽薄さ(1)

 Twitterでは、選択的夫婦別姓推進派が仲間内の愚痴に終始し、世の中の疑問に答えられない状況が定着してしまっています。そこで、今日は、なぜ、彼らはそんなにも無知で軽薄なのか。日本の問題として考えてみたいと思います。

  青野氏は二つの前提なるものを置きます。①多様性の尊重と②時代に合わせたルール変化。この二つの異なる性質のものを並べる整理の悪さには目をつぶるとして、②は単に「適切な制度がいい」という当たり前のことを言い換えているだけなので、スルーします。(これも青野氏が「わざわざ」書いたのは「新しい制度の方が現行よりいい」というイメージ操作なのですが、ツッコミ始めたらキリがないのでやめます。改善ではなく、改悪だと思う人が多いから、法案が成立しないんですよ。ただ「変えた方がいい」と繰り返して、何がいいたいのでしょう。変えたら、よくなるという説明をしなさい。)

  さて、問題なのは、①の「多様性の尊重」なる主張です。もう繰り返しになるのですが、多様性が絶対で、何も対立価値がないのなら、「配偶者のどちらかの姓」とか「結婚は二人でするもの」とか、そういう制約もとっぱらうことを主張しないと一貫しません。姓の選べる範囲も結婚人数も、全部自由にしろと言いなさい。何でもありとなったら、その時点で結婚制度には意味がなくなるので、結婚制度廃止と同じになります。外縁を画さない制度は制度たりえない。すなわち、制度を作るということはアプリオリに制度の中と外を区別・差別する価値判断に基づいてるのです。

   もちろん、もとよりジェンダーフリーの人達は結婚制度廃止が主張なのですが、青野氏は自分は左翼じゃないんだ、結婚制度は大事なんだという主張なわけです。そうすると、なぜ多様性に制約をかけるのか、夫婦のどちらかの姓からしか選べない理由、結婚は二人でしなければならない理由(重婚禁止の理由)が必要なわけです。それも漠然とはあるようなので、話を進めます。

   この点について、青野氏たちは自分の考えを明らかにするのが不都合なので、自説の主張はやめ、単に同姓制度への批判に終始するようになります。やれ、伝統なんて嘘だの、子供がどうだの。全然、本質でありません。

  青野氏が言わなければならないのは、名前の持つ本質的な機能。これがあるから、好き勝手に名乗っていいわけじゃないんですよという話。そうでないなら、「多様性だから、好きに名乗りなさい。選択的夫婦別姓とかでなく自由制です。」とならないとおかしい。

  青野氏の代わりに名前の機能を説明しましょう。なんと言っても、名前は本人の識別・特定が第一です。アイデンティティとかキラキラとか、二の次、三の次。まずは他人と区別できること。この観点からは、実は生涯姓名が変わらない別姓が優れています。対して、夫婦同姓は結婚時に改姓があるので、特定性は弱いと言えます。ただし、夫婦としては識別しやすいというメリットはあります。

  最近提案されている選択制は二つの方式の悪いところを合わせたような制度で、結婚後の女性の姓が旧姓なのか、夫婦の姓なのか、区別がつかないので、外から見る場合、夫婦としても個人としてもどちらも特定性は不十分なものになります。不十分ということは役に立たない。つまり、姓は余計なものにしかならなくなるわけです。(つづく)