青野氏宣言に寄せて(国を良くするとは)

  青野氏らの選択的夫婦別姓活動は国をよくすると称しています。善悪の判断、評価についてはなかなか交わらないところなので、引き続き書いていくとして、少し別の視点から、国を良くする、社会をよくするためには、何が大事なのかを考えてみましょう。

  選択的夫婦別姓推進の方々は、法律や制度が大事だと考えているようです。国と国民の関係が大事だと。果たして、そうでしょうか?

  日本でも世界でも、様々な体制、法体系が成立してきました。その国々の興亡を支配したものは何か?例えば、江戸時代の日本は他のアジア諸国に比べ、特に優れた法制度を備えていたのでしょうか?制度が優れていたから、唯一近代化に成功し、一定の隆盛を得ることに成功したのでしょうか。

  否。明治維新の成功は、制度の力ではなく、人の力によるものです。その国の人が倫理、活力を持って生きていれば、いかに遅れた経済や社会制度も優れたものに変革していけます。他方で、いかに見てくれ良さげな制度を導入しようとも退廃した人心のままで社会がよくなることはありません。

  国民生活は国民が国から自由で、多様であればよくなるか?そんな簡単なわけありません。自由やら多様性やらで、国民が救われると考えているなら、その者はあまりに楽観的に過ぎます。国民の幸せは国との関わりやら自由多様性やらからもたらされるものではなく、日々接する家族・隣人・職場関係。つまり、国民の質に左右されます。政治や経済や社会をよくする本質は人の倫理。

  仮にそうだとして、推進派はそれが選択的夫婦別姓と何の関係があるかと問いかも知れません。そう、直ちに関係があるとまでは言えません。しかし、選択的夫婦別姓自体に問題があるにせよ、ないにせよ、家族に関わる制度を考える時に、選択的夫婦別姓を推進する人間がこだわるポイントに懸念を覚えざるを得ません。姓を変えるコストやら自分の姓を変えたいやら変えたくないやら、即物的・自己中心的論点に執着している、その考え方が我が国のモラルの低下を象徴していると考えるのです。

  今日の日本で、離婚が多く、虐待されている幼児を助ける有効な手が打てず、非婚が広がり、様々な倫理的課題が山積する中で、改姓のコストが、というような論点が果たして優先課題たりうるのでしょうか?(つづく)

青野氏らの軽薄さ(2)

  Tontonjyoにヘーゲルは難しいでしょうが、個や自己について解説します。選択的夫婦別姓推進派が勘違いしているのは、姓名は自己にとっての名前ということで必要なわけではないということです。名前とは、自分の中ではなく、第三者・他者との関係性においてのみ意味があるものです。もし、世界に自分しかいなければ、名前は不要なのです。

  となると、姓名の「姓」については、それが他者にとって何なのかが重要になります。可能性は三つ。

①家族の名前→同姓

②血統の名前→別姓

③いずれでもない(個人)→「名」の一部。「姓」としては不要

  選択制は③なので、論理必然的に姓は不要という設計思想となります。

(姓を急には廃止できないので、過渡的に選択的夫婦別姓という整理はありえます。)

  

補完メモ(tontonjyo用)

  さて、twitterに、しょっぱいお兄さんが出てきたので少しコメントしておきます。この人はクオリティ・オブ・ライフだ、クオリティ・オブ・ライフだ、と騒々しく、結婚時の姓選択の自由を統制するのは不寛容だと主張します。自己決定権の尊重が何よりも重要だと。

    確かに、全ては赦されるわけですが、だからといって、何でもかんでも自己決定に任せればいいわけではありません。自己決定権、自己責任とは、自由意志による合理的な判断が可能な場合に成り立つ概念です。判断に必要な情報が十分に提供されたインフォームドコンセントがある前提でなければならず、迷える子羊たちが誤った道に進むのをむざむざ放置せよと言うわけではないのです。(つづく)

青野氏らの軽薄さ(1)

 Twitterでは、選択的夫婦別姓推進派が仲間内の愚痴に終始し、世の中の疑問に答えられない状況が定着してしまっています。そこで、今日は、なぜ、彼らはそんなにも無知で軽薄なのか。日本の問題として考えてみたいと思います。

  青野氏は二つの前提なるものを置きます。①多様性の尊重と②時代に合わせたルール変化。この二つの異なる性質のものを並べる整理の悪さには目をつぶるとして、②は単に「適切な制度がいい」という当たり前のことを言い換えているだけなので、スルーします。(これも青野氏が「わざわざ」書いたのは「新しい制度の方が現行よりいい」というイメージ操作なのですが、ツッコミ始めたらキリがないのでやめます。改善ではなく、改悪だと思う人が多いから、法案が成立しないんですよ。ただ「変えた方がいい」と繰り返して、何がいいたいのでしょう。変えたら、よくなるという説明をしなさい。)

  さて、問題なのは、①の「多様性の尊重」なる主張です。もう繰り返しになるのですが、多様性が絶対で、何も対立価値がないのなら、「配偶者のどちらかの姓」とか「結婚は二人でするもの」とか、そういう制約もとっぱらうことを主張しないと一貫しません。姓の選べる範囲も結婚人数も、全部自由にしろと言いなさい。何でもありとなったら、その時点で結婚制度には意味がなくなるので、結婚制度廃止と同じになります。外縁を画さない制度は制度たりえない。すなわち、制度を作るということはアプリオリに制度の中と外を区別・差別する価値判断に基づいてるのです。

   もちろん、もとよりジェンダーフリーの人達は結婚制度廃止が主張なのですが、青野氏は自分は左翼じゃないんだ、結婚制度は大事なんだという主張なわけです。そうすると、なぜ多様性に制約をかけるのか、夫婦のどちらかの姓からしか選べない理由、結婚は二人でしなければならない理由(重婚禁止の理由)が必要なわけです。それも漠然とはあるようなので、話を進めます。

   この点について、青野氏たちは自分の考えを明らかにするのが不都合なので、自説の主張はやめ、単に同姓制度への批判に終始するようになります。やれ、伝統なんて嘘だの、子供がどうだの。全然、本質でありません。

  青野氏が言わなければならないのは、名前の持つ本質的な機能。これがあるから、好き勝手に名乗っていいわけじゃないんですよという話。そうでないなら、「多様性だから、好きに名乗りなさい。選択的夫婦別姓とかでなく自由制です。」とならないとおかしい。

  青野氏の代わりに名前の機能を説明しましょう。なんと言っても、名前は本人の識別・特定が第一です。アイデンティティとかキラキラとか、二の次、三の次。まずは他人と区別できること。この観点からは、実は生涯姓名が変わらない別姓が優れています。対して、夫婦同姓は結婚時に改姓があるので、特定性は弱いと言えます。ただし、夫婦としては識別しやすいというメリットはあります。

  最近提案されている選択制は二つの方式の悪いところを合わせたような制度で、結婚後の女性の姓が旧姓なのか、夫婦の姓なのか、区別がつかないので、外から見る場合、夫婦としても個人としてもどちらも特定性は不十分なものになります。不十分ということは役に立たない。つまり、姓は余計なものにしかならなくなるわけです。(つづく)

 

  

 

女に生まれたら改姓したか?

  時々、選択的夫婦別姓推進派から聞かれる質問ですが、瞬殺です。大喜びで改姓したに決まっています。改姓だけでなく、ファッションでもメイクでも、女に生まれたら、全力で女を楽しみ、女としての評価を得られる生き方をしたでしょう。何か不満でも?

   こんなのは、日本人に生まれたとか、人間に生まれたとか、哺乳類に生まれたのと同じで、哺乳類でなく、両生類に生まれたらどうだったとか、哺乳類だから両生類より組織が複雑で怪我が治りにくいなんて不満は持たないものです。

   もちろん、男には改姓なんかより遥かに厳しい男の文化的規律があります。世の大人しく体が弱い、あるいは偏差値の低い男の子は日々、両親や世間から「男なんだからしっかりしろ」というプレッシャーを受けています。選択的夫婦別姓推進のジェンダーフリーの方々は、男に向けられる性差別も批判し、「男だからしっかりしろ」という文化もけしからんというでしょう。

  しかし、ジェンダーフリーの方々や国がいかに男性差別をなくそうとしても、絶対に弱い男が救われることはありません。男の子にしっかりしろという両親や周りは親心、古臭い男の役割を押し付けるなというジェンダーフリーの方々は無責任です。

   弱い男の子が弱いまま大人になれば、女と違って売る体もなければ、永久就職もできない。引きこもりかホームレスになり、性交・子作りのチャンスも得られません。自然界の法則です。ジェンダーフリーの方々がどんなに怒ろうとも、「かわいい男の子」の歓心を買うためにプレゼントやプロポーズして一生面倒見てくれる女性は極めてレアです。

  中にはいわゆる髪結いの亭主、紐という男性もいますが、うまく行っているケースは多くありません。性器の形から分かるように、男が求め、女が受け入れる形になっているため、ダンスもキスも性交も結婚も男が主導権を取らないとならないのです。これは時には男にも重荷なのですが、自然の理であり、この理に反する入婿や男の改姓はなかなかうまくいかないように思われます。

進歩的文化人のファシズム

  さて、上からの猿真似近代化をスタートした日本人の思想界。自ずとマスコミや評論家の論調も根っこのない表面をなぞったような薄っぺらいものになり、極端な一方向に流れやすくなります。

  戦前であれば、富国強兵の国是をさらに推し進め、日独伊三国同盟に突っ走った「新東亜秩序」「バスに乗り遅れるな」理論。既に世界では帝国主義が過去の物になりつつある時期に、今更のように帝国主義を押し進めようとしました。その姿勢は今日の進歩的文化人にも健在です。

  我が国の「進歩的」文化人、「進歩的」マスコミの主張は、公民権運動の頃からアメリカの影響を受けて、マイノリティの権利を飯の種にするようになりました。同和や在日差別。何かネタにできる差別がないか、探し回り、在日の参政権などの問題を発掘してきました。真骨頂が従軍慰安婦問題の創作です。朝日新聞が吉田清二氏の創作を誤報した経緯の説明は省きます。要は商売にしてきた在日や韓国差別ネタも、創作までして過激化しないと、いい加減飽きられ、ネタも尽きて来たということです。(まとめサイトだの、ヘイトだの、左右で細々盛り上げようとしてますが、いかんせん、しょっぱいサブカル感が否めません。)

  そこで、最近華やかな主役になりつつあるのが、ジェンダーLGBT差別問題です。LGBTジェンダーの問題にどれだけ理解があるかが評論家の進歩度を測るバロメーターになり、評論家、マスコミは競うように、過激なジェンダーフリー主張に創造性を発揮するようになりました。

  今や女性の貞操重視や出産奨励につながるような考えは危険思想と看做され、表立って表明することははばかられるようになりました。秘密警察のように、政治家や有名人の「性差別的な発言」を監視し(私が言うのもなんですが)、発見するや否や激しく糾弾するようになりました。

  国民の多くが本音では、ジェンダーフリーの流れに疑問を持ちながらも、そのような発言は匿名の落書のような形で行うしかなく、大手マスコミでは過激なジェンダーフリー発言だけが大手をふってまかり通るようになりました。

同姓はキリスト教の伝統

  別姓派が悦に入る理論に「夫婦同姓は日本の伝統ではない」「伝統は変化するもの」などがあります。いずれもその通りなのですが、全く「選択的夫婦別姓制度にすべき」理由になりません。

  言うまでもないですが、夫婦同姓は明治維新後、西欧化という近代化の過程で導入されたものであり、西欧の制度は「夫婦は身も心も一体である」というキリスト教の精神に基づきます。江戸以前の一夫多妻制を廃止し、一夫一婦制が導入されたのもキリスト教の精神に基づく近代化です。

  それでは、「その西欧、例えば、フランスなどでは事実婚やpacsが増加し、同姓が廃れてきているし、少なくとも戸籍制度で同姓を法的に強制している例はないのだから、日本でも法的強制をやめるべきだ」という議論はどうでしょうか。

  まず、日本と欧米先進国の近代化の歴史の差として、欧米先進国は思想が先にあって、市民革命による近代化が行われたのに対し、日本では明治政府あるいはGHQによる上からの近代化が進められたという事実があります。つまり、欧米では政府が右向けと言ったから右とはならないのに対し、日本では政府が決めた方針がそのまま無批判に国民の方針になる。

  選択的夫婦別姓という話について言えば、欧米では元々、同姓という規律は政府が決めたものではなく、キリスト教の規律です。選択的夫婦別姓というのは単に信教の自由を具体化したに過ぎず、キリスト教の規律としての同姓は依然として大半の国民の規律でありうるわけです。(ここは国民の信仰レベルの篤いアメリカと、薄いフランスなどとの差はありますが、これについても詳しく論じたいと思います。)

  つまり、キリスト教世界では国家の規律や統制がなくとも、キリスト教が規律として働くのに対し、日本では国や法律で倫理が保たれていたものも、自由にすると完全なる放逸・野生に走る危険性があります。すなわち、そもそも結婚とは、愛とは、という哲学的宗教的問を建てたこともなければ、深く考えたこともない日本人は法律のタガが外れるとたちまちウィルスに汚染され、退廃してしまうリスクを持っているのです。